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沖の島の頂に築かれた壇

渡良村の沖の島には、朝鮮出兵の年に祈禱を行ったとみられる石積みが残っていました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

渡良村の項に、沖に浮かぶ大二神島が出てきます。竪はおよそ八町余、横は四町余、高さ五十間余。落ちる嶽が三か所あって、南の岳へは海上からおよそ六十間、西の岳へは六十五間ほど登る、と地誌は書きます。島を測るのに、登る道の長さで書いているところが変わっています。

西の岳の絶頂には社があり、豊臣太閤が寄進したという石の祠だと伝えられていました。東へ三十七間のところに木の鳥居も建っています。海の中の岩山の上に、寄進の由来が付いた祠が一つ立っている、という形です。

そして北の岳の頂上に、この項でいちばん目を引くものがありました。二間四方ばかり石を築きめぐらし、その中に浜の石をたくさん積み置いた場所です。地誌は、朝鮮出兵の年に大島から照子という巫女が渡され、異敵の降伏を祈った所と見える、と記しました。実際に壇を構えた跡と見える有様である、とも書いています。

ここでも撰者は言い切っていません。見えるとしか書かず、誰がいつ祈ったという記録があるとは言いません。根拠は、浜から運び上げた石が二間四方に積まれている、という現物のほうにあります。海辺の石が山の頂にあること自体が、人が運んだ証拠になっています。

項の残りは、島の暮らしと産物の記述です。山の中には杉・榊・桑・椿・柏などの雑木が多く、松はまれ。どれも塩の風に吹きならされて、庭の造り木のような形になっていた、と書かれます。茅が茂り、清水も出る。海草は布苔や和布が多い、と続きます。

最後に、この島の難しさが記されました。風波の時はもちろん、ふつうの時でも他と違って塩の波があり、船を着けにくい所である、と。それでも春になると大勢が海草を採りに渡り、そのために小屋を建てる、と結ばれます。祈禱の壇と、船の着けにくさと、春の小屋。同じ島の上で、三つの時間がそのまま並べて書き留められています。

原文から

豊臣太閤が寄附し給う所の石祠という。

巻之十四 渡良村之部(大二神島)

北岳の頂上に朝鮮陣の年間、大島より照子という巫子を渡されて、異敵降伏の祈禱を修行せし所とみゆる、およそ二間方ばかり石を築き巡らし、その中に浜石を数多 積み置きたる所あり。

巻之十四 渡良村之部(大二神島)

ことごとに塩風に吹きならされて、庭の造木の様なり。

巻之十四 渡良村之部(大二神島)

然れども風波の時は更なり、普通の時も他に異なりて、塩波ありて舩を付けあしき所なり。

巻之十四 渡良村之部(大二神島)

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之十四 渡良村之部。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

ほかの読み物: 飢饉を祈った男の顛末 / 栄螺を取ろうとした姉

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