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矢櫃を埋めた地の石
渡良村の社の下に、矢櫃石という石があります。竪五尺二寸、横四尺四寸七分、厚さ三寸八分。板のようだ、と地誌は書きました。厚みが三寸八分しかないので、置かれているというより、敷かれているように見えたのでしょう。
由来は『続風土記』からの引きで示されます。異説として、仲哀天皇の御代に阿部氏が詔を受けて異国の逆徒を討ったという話が置かれ、三韓の後、将と官軍が率いてこの地に至った、と続きます。その時の矢櫃を埋めた地だというので、石櫃が一つある、と記されていました。矢を入れる箱を埋めた場所に、石の箱がある。名と物が、そういう形で対応しています。
地誌はそのあとに、いまは矢櫃と言い、その石は中世には数多くあった、と書き添えます。数が減ったことだけが記され、どこへ行ったのかは書かれません。かわりに、名のほうが広がっていったことが示されます。川も矢櫃川と呼ばれるようになり、里の名にもなった、と。石は減り、名は増えたわけです。
同じ項の後ろには、猫石という別の石が出てきます。村甲の南、道のかたわらに二つ重なった石で、上の石は竪三尺二寸五分、下の石は竪五尺四寸。寸法のあとに一行だけ、話が付いていました。
中世に、この石を割ろうとした者がいた。ところが血が出たので、驚いてもとのとおりに重ね置いた、というのです。誰が割ろうとしたのか、なぜ割ろうとしたのかは書かれません。血が出たという一点だけがあって、そのあと石は元の姿に戻されています。
さらに南の山中には計升石があります。高さ一尺四寸、四尺余りの四角い石で、形が升に似ているのでそう言い伝えたのだろう、と撰者は推し量りました。板のような石、二つ重なった石、升に似た石。渡良村のこの一連の項は、石の形をどう呼んだかという記録として続いていきます。
原文から
竪五尺二寸、横四尺四寸七分、厚三寸八分の板のごとし。
その時の矢櫃を埋めし地というに、石櫃一とあり。
その石は中世にて数多ありしとぞ。
この石は中世に石工が割らんとせしかど、血が出でしかば、驚きて素のごとく重ね置きしという。