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野の真ん中に船板が朽ちていた
可須村の引野は、北が幸の久保に続き、東と南と西は水田に面した野です。東西二十一間、南北七十五間余。地誌はいつものように、まず広さを測って書きます。
そのあとに、この野のいちばん妙な一行が来ます。野の真ん中は、むかし唐船がひっくり返った場所だと言い伝えられていて、百年ほど前までは船板の朽ちたものなどが残っていた、というのです。周囲は水田で、海ではありません。船が転覆したという伝えと、田に囲まれた野という現在の姿が、そのまま並べて置かれています。
地誌は続けて、いまも東のかたわらに船底という名の田がある、と書きます。伝えを裏づける証拠として出しているのか、単に地名を書き並べているだけなのかは、文面からは決められません。ただ、船板が残っていたのは百年前まで、と書き方が過去に閉じているのに対して、地名のほうは現在形で書かれています。物は無くなり、名は残った、という順で読める形です。
項の後半は、まったく別の顔になります。ここからは、この野の名を詠んだ書と歌が並びます。『増補秋の寝覚』はこの野の景物として鹿とまゆみとつづらを挙げ、『国花万葉記』も真弓と鹿を挙げました。二つの書が、同じ二つを繰り返しています。
そして『古今集』の恋の巻から、梓弓の歌が引かれます。撰者は歌のあとに、この歌はある人が帝から近江の采女に賜わったものだと言われている、と注を付けました。続けて返しの歌が置かれ、さらに『弥生良宴集』から、この野の原も霞んで見えるという歌が引かれます。
同じ一つの野に、二つの記憶が重なっています。船が覆ったという土地の伝えと、都の歌に詠まれた景物としての名です。地誌はどちらを主とも決めず、測った寸法・伝え・田の名・歌の順で置いていきました。読み終えると、野そのものより、その野に付いた名の来歴のほうが厚く残ります。
原文から
その正中に、往古 唐船の覆った所と言い伝えて、百年以前までは船板の朽ちたものなどがあったという。
いまも「舩底」という田地が東の傍らにある。
『国花万葉記』にいう、ひきの、景物は真弓・鹿。
この歌は、ある人が天の御門(帝)が近江の采女に給わったものであると申す。