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島でいちばんの石を切る

志原村の浦の岬には石工が集まって住み、この島で石を切る仕事はここから始まったと書かれています。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

志原村の巻に、久喜浦という項があります。書き出しはことわりです。江川から西は当村に属する。戸数や船の数、海の瀬のことは池田村の海辺の部に書いたので、ここでは省いた、と。同じ浦が二つの村にまたがっているので、数え上げは片方の巻にまとめてある、という断りです。

省いたあとに書いてあるのは、社と堂です。江川のほとりの恵比須社。浦の鎮守である左右御前社は、御殿が卯辰向きで桁八尺、境内は東西三十八間。神畠が二畝と記された帳面はあるけれども、途中で絶えていま詳しくは分からない、と付け加えられています。観音堂はもと寺であったと『梵刹帳』が伝えていました。

そのあとに、嶋崎という岬が出てきます。海辺に突き出た岬である、という一行の次から、この項でいちばん珍しい記述が始まります。ここは石工が集まって住んでいて、いつも石を切り出している所である。国じゅうで第一の名石だ、と。

続けて、島でこの仕事がどこから始まったかが書かれます。この国にむかしから石工がいたのは当村が始まりだという。いまは村々にも大勢いる。けれども名工はこの所にいる、と。技を持った人がどこに集まっているかを、地誌が名指しで書いています。社の由緒でも田の高でもなく、職人の居どころが記されているところが、この項の目を引きます。

この島の石の項は、ふつう石そのものの寸法と、それにまつわる言い伝えを書きます。ここではそれが逆になっていて、石を切る人のほうが書かれました。石垣も鳥居も石祠も、この本の中では数えきれないほど出てきます。それを作った側が、一度だけ名を持って現れる場所です。

岬の先の海にも記述があります。沖に柱瀬があって、その柱は高さ六間、周囲四十四間。国じゅうを巡る八柱のうちの一つだという。浜から三十二間の所にある、と割り注が付いています。石を切る岬の沖に、海から立つ柱のような岩がありました。

項の残りは、また地名と堂の並びに戻ります。当田尻は志原と初山の境。丸籠の観音堂は堂主が円光寺で、本尊は十一面の立像、長さ三尺二寸。有田里には家があり、国司社があって、神の名は詳しく分からない。有田の殿川という井戸は六尺余り四方で深さ一尺、村じゅうで二番めの名水である、と。

一番と二番が、この項には二つ出てきます。国じゅうで第一の名石と、村じゅうで第二の名水です。撰者はどちらも、誰がそう言っているとは書きません。そう呼ばれていた、という形で書き留めたまま次へ進みます。

原文から

この所は石工が集い居て、常に石を切り出す所なり。国中第一の名石なり。

巻之十一 石田郡志原村之部(久喜浦・嶋崎)

およそ当国にむかしより石工の居しは当村が始めなりという。いまは村々にも数多 居れり。然れども名工は当所にあり。

巻之十一 石田郡志原村之部(久喜浦・嶋崎)

その柱は高さ六間、周匝四十四間、国州の巡り八柱のその一つなりという

巻之十一 石田郡志原村之部(久喜浦・柱瀬)

当社は浦中の鎮守なり。

巻之十一 石田郡志原村之部(久喜浦・左右御前社)

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之十一 石田郡志原村之部。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

ほかの読み物: 海から遠い滝に、塩が出る / 姥子松の下にある墓

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