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姥子松の下にある墓
石田村の原に、姥子松という松があります。地誌の書き出しは短く、その松の下に一間四方、周囲四間四尺の墓がある、と記すだけです。近くに井泉もあって、そちらは姥子河と呼ばれていました。
そのあとに、里の人の話が置かれます。むかし一人の男が、都から女を連れて来た。昼も夜もいつくしんでいたが、男には寿命の限りがあって、先に亡くなってしまった、というのです。
残された女は年を取り、頼るあてもありませんでした。そこでこの場所に小屋を建て、農作業をしている人たちのところへ煎茶を持って行くようになります。口を潤してもらうだけの、ささやかな働きでした。地誌は、それを見た人々が女を気の毒に思い、稲の穂・粟の穂・大麦や小麦の穂などをたくさん与えた、と書きます。そのおかげで、女は心安く暮らしていくことができた、と続きます。
この話には、事件らしい事件がありません。男が死に、女が茶を配り、人が穂を渡す。それだけです。それでも土地の名として残ったのは、最後の一行があるからでしょう。女が亡くなったあと、その場所に葬って松を植え、目印にした。だから姥子松というのだ、と結ばれます。
墓の寸法が先に書かれていて、由来の話が後から来る順序も、この本らしいところです。撰者はまず一間四方という測れるものを置き、そのうえで、なぜその墓がそこにあるのかという測れない話を写しました。話の出どころは『風土記』の意である、と括弧の中に断ってあります。
茶を配ることで暮らしが立ち、穂を渡すことで人が応える。そのやりとりに名前を付けようとすると、この島では松を一本植えるという形になりました。項はそこで終わり、次は昼守という場所の小さな祠へ移っていきます。
原文から
この松の下に方一間、周囲四間四尺の墓あり。
むかし一人の男が京より女を連れ来れるが、昼夜 愛寵しけるに、男は寿に限りありて、ついに空しくなりぬ。
諸人がこれをあわれみ、稲穂・粟穂および大小麦の穂などを多く与えけり。
すでに滅後に及びて、その所に葬り、松を植えて標とす。