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井戸の名が、山の名になった
江浦の境内に、四方三尺、深さ二尺八寸の井戸があります。水はたまっている深さが二尺で、良の岸のほうから湧いて出る、と幕末の地誌は書きました。これだけなら、島じゅうにいくらでもある小さな井戸の一つです。
次の一行が、この井戸を項に立てさせました。名水であって、日照りのときも長雨のときも水が増えも減りもしないという。そして、この水から山号を取った、と。
寺や庵の名は、たいてい二段になっています。前に山の名が付き、後ろに寺の名が来る。その前半が、目の前の井戸から来たと書いてあるわけです。開いた人の名でも、山の形でも、経典の言葉でもなく、水の質が名になった。地誌は理由を説明せず、そう伝えられている、とだけ記します。
項の残りは、同じ一画に並ぶものの列です。荒神の祠、金毘羅の社。その金毘羅の社について、地誌ははっきり新しい社だと書きました。文化十年の秋に、今西屋という家の者が勧請したのだ、と。江戸の終わりから見ても、五十年ほど前の出来事です。
隣に立つ観音堂には、別のやり方で年代が当てられています。この堂は『風土記』に出てこない、ならば寛保より後に建てられたものだろう、と。書かれていないことを根拠にして、それより後だと決める。棟札も口伝も無いときに、撰者がよく使う手つきです。
最後に石が二つ出てきます。社地にある雷石は、東西五尺、南北六尺六寸、高さ三尺三寸。ここで『壱岐廻』という別の書が引かれて、むかし雷が落ちてこの石に腰かけたのだ、という言い方が添えられます。さらに南へ一百二十間ほど行った海辺にも、雷瀬と呼ばれる石があると書かれていました。
一つの項の中に、水と社と堂と石が地続きに並んでいます。共通しているのは、どれも建った年か、名の由来か、そのどちらかが書き添えられていることです。分からないものには、分からないと書くか、他の書を引いて代わりにする。井戸の項は、その手つきが短い範囲にまとまって見える場所になっています。
原文から
この井は方三尺、深二尺八寸、水中二尺(水は良の岸より出づ)。
これ名水にして、旱雨中も増減なしという。この水より山号とせしとぞ。
当堂は『風土記』に見えず。然ればこれは寛保の後に建立せし所なるべし。
〇『壱岐廻』にいう、むかし雷が落ちてその石に腰かけ給うとて、高さ二尺、横六尺の石あり。