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手長比賣神社
由緒
『扶桑略記』延喜十八年(918 年)の太宰府解に、手長比賣明神と住吉明神の社が太鼓のように鳴動し、御体の美石が宝殿を出て地上に現れた、と壱岐島が言上した記事がある。祭神は栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)と天押穂耳命(あめのおしほみみのみこと)。『神社覈録』は手長を多奈賀(たなが)と訓み、比賣は仮名書きとする。同書は祭神を明らかとしつつ、千々姫とする説を採らない。『特選神名牒』は栲幡千々姫命と天押穂耳命の二神を挙げるので、一方が退けた説を、もう一方が採っていることになる。
いまのどの社か
延宝の査定は本宮邑の崩(くずれ)の山神を当てたが、神社考はその地名「タナカウ」が種子籾(たねもみ)を播(なか)す河の意であって手長社とは関係がないとし、勝本浦の聖母(しょうも)大明神だろうとする。式社沿革考は「勝本浦のは中津神社であって手長社ではない」と反論し、郡は異なるが物部邑中通の社だろうという。石田郡の天手長比賣神社との区別も絡み、なお定まらない。『特選神名牒』は明治期の所在を本宮村(鯨伏村本宮)とし、社格を持たない社と記す。石田郡の天手長比賣神社が名神大であるのに対し、こちらは小社で、名の似た二座が郡を分けて並ぶために、勝本浦の聖母大明神をどちらに当てるかという形で論が交差する。神社考は聖母大明神説を採り、式社沿革考は「勝本浦のは中津神社であって手長社ではない」と退けて物部邑中通の社を挙げた。どちらとも決めがたい。
いまの社
- 手長比賣神社筆頭
- 聖母宮論社
- 天手長比賣神社(古社地)参考