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高御祖神社
由緒
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を祀る。『扶桑略記』は延喜十八年(918 年)の太宰府解として、高御祖名神の社に内で乱れる音がし、炎光が照り耀いて東を指して飛び去った、と壱岐島が言上したことを伝える。卜部らは「島内に疾(と)く兵革(いくさ)あらん」と申したという。『神社覈録』は高御祖を多加美於夜(たかみおや)と訓む。祭神を高皇産霊尊とする点は動かないが、『特選神名牒』はこれに伊弉諾尊と伊弉冉尊を加えて三神を挙げる。高皇産霊は天孫の祖にあたる神で、この島にその名を負う名神が置かれたことになる。『扶桑略記』のこの記事は高御祖を名神と呼んでおり、島の側が朝廷へ社の異変を言上した記録にあたる。二十四座のうち、国史に社の異変が載るのは住吉神社と手長比賣神社とこの座である。
いまのどの社か
諸吉(もろよし)村に当てる点は承応社記も明細帳も長崎県式内社記も一致する。ただし神社考は、諸吉邑の熊野権現が紀州田辺から勧請した伊弉冉尊を祀る田部権現であって高皇産霊尊ではない、と疑いを挟む。箱崎八幡神社の相殿にも高御祖神社が祀られている。『特選神名牒』は明治期の社格を村社とし、所在を諸吉(もろよし)村(田河村大字諸吉)と記す。承応社記も明細帳も長崎県式内社記も諸吉村で揃うので、当てる村については二十四座のなかでも動きの少ない座にあたる。ただし同書は、神社考の疑いを退けずに併記したまま、結論を出していない。祭神の理解と社の由来が食い違ったままなのが、この座に残された問いである。
幕末の島ではこう見ていた
この社はもと熊野権現と称していたのを、延宝年間に「高御祖神社」と改めた、と幕末の地誌は書く。そのうえで『神社考』の別説を短く引く。高御祖神社は月読の社に合わせ祀られている、そうであれば同じ社に坐すとも見える、というものである。地誌が並べる祭神の配りかたは、この説と隣り合っている。正殿に高皇産霊尊、左に伊弉諾尊、右に伊弉冉尊を置き、脇殿の左に天日神命、右に天月神命を祀る。続けて『日本書紀』顕宗天皇の巻を引き、月神が人に憑いて「我が祖 高皇産霊」のために土地を求め、日神も同じく高皇産霊へ田を献れと告げた記事を写す。日と月の二神が高皇産霊を祖と呼ぶ記事と、その二神を脇殿に置く社の造り。地誌はこの二つを並べて置くだけで、結び付けるとも結び付けないとも書いていない。