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兵主神社
由緒
貞観元年(859 年)正月に従五位上を授けられた古社だが、祭神の理解は本によって大きく揺れる。『神社覈録』は素戔嗚尊(すさのおのみこと)か、とする。本宮(ほんぐう)邑の兵主神社の縁起は住吉三神を祭神とし、延宝の査定は川北邑の社を大己貴命、素戔嗚尊、事代主命の三神とした。『特選神名牒』は、この三神説を兵主神への付会ではないかと疑う。『神社覈録』は兵主を比夜字須(ひやうず)と訓む。祭神の説がここまで割れるのは、社名が神の名ではなく、兵(つわもの)を主(つかさど)るという職掌を指す語だからで、どの神を当てるかが書き手の見立てに委ねられてしまう。『特選神名牒』は、本宮邑の縁起が住吉三神とすることを引いたうえで、延宝の査定の三神説を疑い、どちらとも決めずに並べた。
いまのどの社か
当てる村も定まらない。壱岐式社所名徵は川北村とし、神社考は「河北は昔は石田郡で壱岐郡ではない。旧記はことごとく本宮邑とする」と論じ、本宮邑の縁起にある「伊岐郡風早郷本宮邑兵主神社、戌亥(北西)向き」を根拠に挙げる。明治の明細帳と長崎県式内社記はさらに深江村と定めた。いまの兵主神社はその深江にある。『特選神名牒』が記す明治期の姿は、村社で、割注に「深江村字徳山」、所在は田河村大字深江である。同書はこの座を二十四座のなかでも大きな論点として扱い、川北・本宮・深江の三つを並べたうえで、なお考えるべきだ、と結んで筆を置いた。三百年の考証を経てなお、どの村の社かが定まらないまま、明治の社格だけが与えられたことになる。
幕末の島ではこう見ていた
幕末の地誌が引く『神社考』に、延宝の改めの手ぎわを伝える一段がある。可須郷 勝本の聖母大明神を兵主神社とし、西間郷 川北の日吉山王を聖母大明神とした。そのため聖母社の石鳥居の額を日吉山王へ納め、聖母の社には兵主神社の石額を掛けた。ところが延宝九年(1681 年)に、その石額と社号をまた取り替えた ―― という。二つの社のあいだで石の額が行き来し、五年のうちに戻ったことになる。『神社考』はそのうえで、勝本の聖母社は神功皇后を祀り、この津は三韓の往来と着岸の地であることは世の人の知るところだから、聖母の額を日吉山王へ納めるべき理由は無い、と書く。日吉山王の大宮は大己貴命であって、兵主神社とするには拠がある、とも。