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大國玉神社
由緒
『特選神名牒』は祭神を大己貴命とし、この神の別名を大国魂神(おおくにたまのかみ)ともいうことによる名で、実はこの国の国玉神(くにたまのかみ)だろうとみる。いまの社も延宝以前は大國魂命を祀っていたと伝える。『神社覈録』は大国玉を於保久爾多麻(おほくにたま)と訓み、祭神を明らかとする。『特選神名牒』は、大己貴命の別名である大国魂神によった名とみて、実はこの国の国玉神だろうと論じた。神の名としてではなく、この国そのものの霊を指す名として読んだことになる。『神社覈録』も『特選神名牒』も祭神を大己貴命の系統に置く点では揃っており、割れているのは当てる村のほうである。二十四座には、祭神が揃って比定の割れる座と、比定が揃って祭神の割れる座の両方がある。
いまのどの社か
明細帳と長崎県式内社記は志原村を採るが、神社考は「志原邑の田原天神(大原大明神とも書く)を大国玉神社としたが、田原天神は菅原道真で祭日は九月二十五日であり、川北邑の日吉山王も大己貴命で、しかも川北邑は昔は石田郡だった」と指摘する。式社沿革考は川北邑の日吉山王を大国主神社とみて、志原村ではありえないとした。『神社覈録』は志原村の天神に当てる。明細帳も長崎県式内社記も志原村を採るので、当てる村としては志原説が公のものだった。式社沿革考はこれに従わず、川北邑の日吉山王が延宝以前から式内と称した大国主神社であることを挙げて、志原村ではありえないとする。神社考の指摘した「川北邑は昔は石田郡だった」という一点が、郡の合う合わないという形で、この座にも効いている。
幕末の島ではこう見ていた
改めの前の姿が、祭神の並びにそのまま残っている。幕末の地誌が挙げるのは、大己貴神・大后神・事代主命に続けて、菅贈相国・吉祥女・中将殿・宰相殿の七座である。後の四座は天神を祀る側の顔ぶれで、大己貴神の系統とは別の筋にあたる。社の名を式社のものへ替えても、祀るほうは前の並びを落とさなかったことになる。地誌はその経緯も一行で書く ―― 古来「田原天神」と称してきたのを、延宝四年(1676 年)に式社としたので、それより官社として国の人が仰いだ、と。『神名記』も、小神に改める以前は「天神」といい、また式外といった、と記す。『神明品書』が「田原に天満大自在天神」と書くのも同じ姿を指している。