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與神社
由緒
延喜式は「與神社」に作る。『太宰管内志』は「與は興を誤るか今は興に造る、さらば於支(おき)とよむべし」といい、橘三喜も字体の似ているのを誤写とみて、湯岳村の興神社を式内の與神社に当てた。壱岐神名記には「興村興神社祭足仲彦天皇、延宝已前ハ稱印鑰大明神又稱式內」とある。『神社覈録』は興を於伎(おき)と訓み、「安多倍(あたべ)」とする古点もあること、諸本には「與神社」に作るものもあることを書き添える。祭神は『神社覈録』が詳らかでないとし、『特選神名牒』も欄を空けたまま埋めなかった。名も字も祭神も、いずれも一つに定まらない座である。
いまのどの社か
式社沿革考はこれに従わない。「深江村の宗社である深江大明神は十七社の一で、延宝以前から式内と称したから、これが與神社ではないか」という。興神社を天手長男神社に当てる立場を採れば、與神社は深江神社ということになる。二つの比定は連動している。『神社覈録』は湯岳(ゆだけ)村、もとの典村の印鑰(いんやく)明神に当て、明細帳も長崎県式内社記も湯岳村を採る。『特選神名牒』は明治期の社格を村社と記す。天手長男神社の比定で、国府と印鑰宮と興神社を同じ社とみる筋が立つと、この座はそこから押し出されて深江神社へ移る。片方だけを決めることができない。深江大明神を十七社の一とみる式社沿革考の説は、延宝より前から式内と称していたことを拠りどころにしており、地名から当てた延宝の査定とは、拠りどころの立て方そのものが違う。
幕末の島ではこう見ていた
この座については、幕末の地誌がはっきりと不同意を書いている。当社は『神名帳』の石田郡 与神社だというけれども、おぼつかない ―― そのわけは、『神明品書』および慶安以前の棟札などが、ことごとく「印鑰大明神」と記しているからである、と。延宝の改めのとき「与神社」を「興神社」と心得て、「興」という土地の名によって印鑰大明神を興神社としたと見える、とも書く。棟札の並びがその根拠を支える。永禄九年(1566 年)の宝殿造営、同十三年(1570 年)の拝殿造営、慶安二年(1649 年)の宝殿造営 ―― いずれも「印鑰大明神」である。「興神社」と記した棟札は延享三年(1746 年)と文化四年(1807 年)の二枚しかない。名が変わったのは近い世のことだ、と棟札の側から示している。