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國津神社
由緒
『神社覈録』も『特選神名牒』も祭神を詳らかにしない。いまの社は足名槌命、手名槌命、奇稲田姫命を祀り、武甕槌神を配祀する。『神社覈録』は国津を久爾都(くにつ)と訓む。同書は祭神を挙げず、『特選神名牒』の祭神欄も空のままである。所在について『神社覈録』は渡良(わたら)村の青波賀(あおはが)明神に当て、『特選神名牒』は明治期の社格を村社、所在を波良村(明細帳は渡良村とする)と記す。
いまのどの社か
この社号については、神社考が延宝の査定に真っ向から異を唱える。「波浦村の蓬宮(よもぎのみや)を国津神社とするのは大きな誤りで、これは物部布都神社であって国津神社ではない」。式社沿革考も、壱岐廿四座記、承応社記、吉野公光記、神社考、式社略考の五書が渡良(わたら)村を物部布都神社とすることを引いて、二つの社号が入れ替わったと結論した。式社沿革考には、もう一つの読み筋がある。石田邑の印通寺(いんどうじ)浦は、昔 筑前大宰府の管内だったとき年貢運送の津だったと伝えるので、国津神社はその村の志自岐(しじき)大明神だろう、というものである。ただし『特選神名牒』は、「国津」を「官津」と解するのは疑わしいとして、これを採らない。渡良村をめぐる物部布都神社との取り違えとは別に、名の読み方そのものから立つ異説があったことになる。二つの社号が入れ替わったという結論は、渡良村の社を国津神社と呼ぶか物部布都神社と呼ぶかの問題で、社そのものが動いたと言っているのではない。
幕末の島ではこう見ていた
社の名がいつ入れ替わったのかを、幕末の地誌は棟札で確かめようとして、確かめきれずに終わっている。蓬宮大明神とあるのを、蓬を国語でフツというからフツノミヤと訓み、式の物部布都神社だとする説がある。しかし疑わしい、と地誌は退ける。理由は棟札である。慶安三年(1650 年)・明暦二年(1656 年)・寛文十一年(1671 年)の三度の棟札には「荒波賀」「青波賀」とだけ見え、「蓬宮」と書いたものは寛永十七年(1640 年)の一枚しかない。それは昔から伝えられたものによって書いたのだろうか、とも書く。そのうえで、蓬宮と称していたのを荒波賀・青波賀とどういうわけで呼び替えたのか、なお考えるべきである、と結んで筆を置いた。