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天手長男神社(あめのたながお)

二十四座の第 13 座 / 石田郡 / 社格 名神大

由緒

『文徳実録』嘉祥三年(850 年)十月に、壱岐島の天手長男神を官社に列すとの詔が見える。壱岐国一宮とされる社である。祭神には天忍穂耳尊、手力雄命、鈿女命など諸説があり、『特選神名牒』はそのいずれも信じがたいとして、式の文のまま天手長男神と記すにとどめた。『神社覈録』は天手長男を阿米乃多奈賀乎(あめのたながを)と訓む。同書が採らないとした説は、天忍穂耳尊・手力雄命・鈿女命のほか、思兼命の一男・稚産霊尊にまで及ぶ。『特選神名牒』が退けた説はさらに広く、旧説の仲哀天皇、相殿に住吉大神と気長足姫尊を置く形、延宝の査定の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊・手力男神・天鈿女神の三神が並ぶ。二書はそろって「これではない」と言うだけで、当てる神を示していない。当国の一宮とされる社でありながら、祀る神が二書のどちらからも定まらない。

いまのどの社か

一宮をどの社に当てるかは決着していない。延宝の査定は物部(もののべ)村の鉢形峰に石社と木鏡を据えて新たに勧請したが、神社考は「石田郡湯岳村の内『こう』の印鑰(いんやく)大明神こそ昔から当国の一宮と伝える」とし、式社沿革考は「一宮とも国府宮とも印鑰宮とも称し、これは興神社ではないか」とみる。興神社の「興」は国府の意で、近くには壱岐国府があり、境内には壱岐総社神社もある。『神社覈録』は物部(もののべ)村、もとの櫻江村の若宮に当てる。式社所名徵も承応社記も国府村を採るので、明細帳と長崎県式内社記の物部邑説とは、拠る旧記のところで正面から食い違う。物部村を採るか国府(湯岳)村を採るかは、與神社をどこに当てるかとも一組で動く ―― 国府の印鑰宮を興神社と見て一宮に当てれば、與神社の側は深江神社へ移ることになる。

出典: 太宰管内志(コマ 400) / 特選神名牒 / 神社覈録 (国立国会図書館デジタルコレクション。いずれもインターネット公開の資料です)

幕末の島ではこう見ていた

祭神が入れ替わった筋道を、幕末の地誌は『一宮記』によりながらこう説く。一宮記は天手長男神社を天思兼神の一男、すなわち天手力雄神とする。ところが天忍穂耳尊を正殿に祀っていた八幡宮 比売大明神のほうを天手長比売神社として栲幡千々姫命に当てたので、こちらもそれに合わせて天忍穂耳尊を正殿に祀るようになったのだろう、という。そして天手力男神はいま相殿に下がっている、と書き添える。二社の比定が一組で動き、片方の祭神を決めたことが、もう片方の正殿の神まで動かした、という見立てである。諸国の一宮という決め方そのものにも、いつの御代に定めたのか記した文を見ない、鎌倉の北条家が定めたという説もある、と留保を置いている。

上の二節は明治以降の三書による論です。こちらは、それより前に島の人が書いた考証にあたります。

出典: 『壱岐名勝図誌』(1861 年成立) 巻之十六 石田郡物部村之部。当方が現代語に起こしました

いまの社

立場は三書の論によるもので、当方はどれが正しいかを決めていません。所在と例祭日、地図は各社のページにあります。

出典: 各社のページ(壱岐観光ナビほか)/当方確認 10/16 17:05

ほかの座: 第 14 座 天手長比賣神社 / 第 15 座 彌佐支刀神社

明治の社格でみる島の神社 173 社 / 幕末の二十四か村の社寺の数

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