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角上神社
由緒
『神社覈録』は「都乃倍(つのへ)」と訓み、湯岳(ゆだけ)村の塗神(ぬりがみ)に当てる。松本重足は角上山が両郡に跨ることから、石田郡牛方(うしかた)村の津上明神を挙げた。いまの社は素盞嗚尊を祀る。同書は祭神を詳らかでないとし、紀角奈彌とする説を採らない。『特選神名牒』は須佐之男尊とする。同じ山の名を負う社が二つの郡にあるため、この座はまず、どちらの郡のものかという形で論が始まる。
いまのどの社か
神社考の批判は厳しい。「湯岳村の出石(いずし)の都上岳には祭神がなかったのを延宝の調で新たに勧請し、石社と木鏡を奉納した。『角上』を『都上』とどう思い誤ったのか。しかもこの地は昔は石田郡で壱岐郡ではない」。半城邑の角上大明神こそ角上神社だ、というのがその結論である。式社所名徵も承応社記も半城村を採るので、湯岳村ではありえない、と『特選神名牒』は結ぶ。ただし同書もそこで断を下さず、なお考えるべきだ、と書き添えた。石田郡の津神社の項では、半城邑の角上大明神を延宝の査定が津神社と見たのは誤りだ、という神社考の批判が出てくる。角上と津の二座は、半城の同じ社をめぐって裏表になっている。式の二十四座の名を、島にいまある社へ一つずつ割り当てようとすると、こうした重なりが残る。神社考は、延宝の査定が都上岳に石社と木鏡を新たに据えたことまで書きとめており、社の無かった地に社を建てて式内社に当てた、という手つきをそこから読み取っている。
幕末の島ではこう見ていた
二十四座のうち、撰者が自分の名で決着をつけた数少ない一座である。「正足按ずるに」としてこう書く。『神名帳』にあるのは角上神社という名であり、この所にあるのは塗神と称えてきた所であるから、異なる神であろう ―― と。延宝の改めがここへ当てたのは違っている、と正面から言い切っている。ただしそこで終わらない。しかし今の世から式社と称え替えられたのは、自然な神の御徳であろう、と続ける。違うと断じたうえで、その名が定まってしまったことまでは否まない。社の格については『文徳実録』の嘉祥三年(850 年)五月に壱岐島の角上神社を官社に列すという記事を挙げるにとどめ、湯岳のこの峰がその官社かどうかは、按じ書きのとおり別に扱っている。