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水神社
由緒
『神社覈録』は「水」を美豆(みづ)と訓む。祭神を水の女神とみる点は諸書が揃うが、名は割れている。『神社覈録』は罔象女命(みつはのめのみこと)か、とし、『特選神名牒』は彌都波能賣神(みつはのめのかみ)を採って、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)とする長崎県式内社記を退けた。『太宰管内志』は訓みそのものを決めかねている。「美豆乃加美(みづのかみ)とよむべし」としながら、「モヒ」と訓むべきかとも思ったが、なお聞きつかない心地がする、と書き、そのうえで御名は水にゆかりがあって負わせたものだろうと結んだ。伊勢国度会郡の大水神社を引き合いに出しているのも、水の神の名として読むためである。訓みが定まらないまま社名だけが伝わった座にあたる。
いまのどの社か
いまの水神社が布気(ふけ)にあるのは、延宝八年(1680 年)に平戸藩の橘三喜(たちばな みつよし)が下した査定による。ただし『特選神名牒』は、その神体銘に「大永丁亥(大永七年・1527 年)に天満天神の御身体を再興す」とあることを挙げ、もとから天満天神であって水神社ではない、と布気説を採らない。半城(はんせい)邑を有力とみる旧記が多く、いまも半城本村の河原神社を古社地とする見方がある。『特選神名牒』が並べたのは二つの系統である。立石村とするのは明治の明細帳と長崎県式内社記、半城邑とするのは式社所名徵・壱州廿四座記・承応社記といった旧記で、同書は後者に分があるとみた。明治期の社格は村社である。
幕末の島ではこう見ていた
この社はもと「天神」と称していたのを、延宝四年(1676 年)の式社改めのとき、「水本」という土地の名によって『神名式』の水神社であるとした ―― 幕末の地誌はそう書き、続けて括弧のなかにこう付け足す。この国の式社の考は、地理の合わない社があって、すでに先師たちもそう言っていた、と。改めそのものを地名の当てはめとみて、島の外の学者を待たずに疑いを置いたことになる。なお上の節は査定の年を延宝八年(1680 年)とするが、この地誌は延宝四年とする。どちらかを正しいことにはしない。土地の名の由来のほうは、里の言い伝えとして長く写している。神が村の未申の木落浜に船を着け、石に腰をかけて鬢を掻いた。そこから出て小川の渡りで「夜が更けた」とおっしゃったので、里の人がその所を「ふけ川」と呼び、やがて一村の名になった。いま「布気」と書くのはそのためだという。